礼拝説教


2010/4/11 復活節第2主日

       「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

           −2010年度教会標語−

牧師 大村  栄

イザヤ書46:1〜4


◇「第二イザヤ」別名「バビロンのイザヤ」の作。バビロン補囚の中で同胞に神の言葉を語った。

◇イスラエルは出エジプト後、先住民カナン人の偶像礼拝に影響されないよう、それとの戦いを繰り返した。預言者たちは繰り返し神への忠誠を説いたが力及ばず、不信仰におちいった結果、北王国イスラエルは紀元前8世紀にアッシリアに、南王国ユダは6世紀にバビロニアによって滅ぼされ、多くの民は捕囚とされた。だから「バビロンのイザヤ」は、今度こそ偶像礼拝と真剣に戦い、神の民のアイデンティティーを取り戻さなくてはならないと訴える。

◇「1:ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す」。ベルはバビロンの守護神マルドゥク、ネボはその息子。それらの偶像は人間や家畜によって運ばれ、その途中で下を向かされたり、地面に置かれたりする。人間が神の前にかがみ、ひれ伏すべきなのに、神々の方がそんな無様な格好をしている。しかしイスラエルの神は民に運ばれるのではなく、民を運ぶのだ。

◇「3:わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」。私たちは神のものだ。神を勝手に利用したり、好きなように持ち運んだりするのではなく、むしろ神に持ち運ばれ、神に生かされ、用いられる生涯を歩みたい。「神はあなたの知識の中にいまし給わずして、神の中にあなたの知識がある」(エーミル・ブルンナー『我らの信仰』)。言い換えると、神は私たちの中にいますのではなく、私たちが神の中に存在する。

◇「4:わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。人生の老いのことを指すと同時に、歴史の終わりまでという意味でもある。それまでの日々がどんなに困難でも、神は私たちを担い、背負い、最後の救いに入れて下さる。「おまえが試練にあって苦しんでいた間、一人分の足跡しかないのは、その時、私がおまえを背負っていたからなのだ」(「足跡」より)。今年度もこの神を宣べ伝える教会でありたい。

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