礼拝説教


2010/4/18 復活節第3主日

       「イエスは良い羊飼い」

牧師 大村  栄

ヨハネ福音書10:7〜18


◇「主はわたしの飼い主」と告白するならば、私たちは自分の生殺与奪の権限を主に明けわたさねばならない。しかし主は、羊に対する愛と責任をもった真の飼い主だから「11:羊のために命を捨てる」と言われる。それは十字架の死についての予告だが、「18b:これは、わたしが父から受けた掟である」。すなわち十字架は父なる神の掟、ご計画なのだ。

◇その神のご計画の底にある動機を、詩編23は「3:主は御名にふさわしく、わたし(羊)を正しい道に導かれる」と表す。「御名」は神ご自身。十字架は神ご自身が神であるがゆえに行われる恵みの業である。それを受ける人間の資格や条件によるのではない。

◇「御名にふさわしく」を「約束された通りに」と訳す聖書もある。神はイスラエルの民とシナイ山において契約を交わした。「もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」(出エジプト19:5)。しかし民は目に見える豊かさへの欲望にとらわれ、神との契約を破棄してしまった。にも拘わらず神は契約に忠実で、なおも彼らを「わたしの宝」と呼ぶためにキリストを遣わして下さった。

◇キリストの聖餐制定の言葉に、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(?コリント11:25)とある。主イエスは神の愛の契約を更新し、ご自身の血をもってこれを確かなものとして下さった。この十字架において、「御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」というダビデの詩が、時空を超えて成就したのである。

◇そのために命を捨てて下さった「良い羊飼い」なる主に飼われ、養われる者として身を委ねて生きるのがキリスト者の特権であるが、閉鎖的な特権ではない。「16:わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」。社会全体にキリストの声を待っている人々がいる。すべての人に神の愛が宣べ伝えられ、「16b:こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」。ここに真の一致の希望と、それを宣べ伝える教会の使命がある。

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