礼拝説教


2010/5/2 復活節第5主日

       「イエスはまことのぶどうの木」

          

牧 師  大村  栄

ヨハネ福音書15:1〜11


◇「つながって」が9回も繰り返される。私たちは何につながっているかが問われている。「2:わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。

◇ 実を結ばない枝は取り除かれ、良い実を結びそうな枝も「手入れ」される。これは様々な訓練や試練を受けることだろう。しかしそれらの剪定や手入れが救いの条件なのではない。「3:わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」。訓練によってではなく、キリストの語る神の言葉によって、私たちはすでに清くされているのだ。

◇「つながっている」のギリシア語「メノー」には「とどまる」(「9:わたしの愛にとどまりなさい」)の意味があり、「もちこたえる」というようなニュアンスもある。私がかろうじてつながっていると思うような時にも、そんな時にこそ、自力で「つながっている」のではない、主は「4:わたしもあなたがたにつながっている」と言って下さり、私があなたを支えると言って下さる。その愛を信じて委ね、その愛を告げる福音を信じて生きること、それがキリストにつながっているということだ。まさに教会標語の「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:4)そのものである。

◇甲府盆地の日下部教会にいた時、ぶどう畑を処分した空き地に棒杭が地面に突き刺さり、その杭の先端から水がにじみ出しているのを発見した。よく見るとそれは枝を払われた後のぶどうの幹だった。貧弱な幹だが地下に深く広く根を張り、かつては大きく広がった枝の隅々まで水分を供給していたのだ。

◇主イエスはご自分をこういう幹にたとえた。ご自分が実を豊かに結ぶためでなく、枝々に実を結ばせるために自らは棒杭のようになって、棒杭のような十字架につけられた。このキリストの幹につながって生きることが私たちの喜びと力である。

◇そして一つの木につながる枝として生きる群に真の一致がある。「われらを結べるみ霊はひとつ、我らに通える生命も一つ。ひとつの御糧に育まれつつ、ひとつの目的(めあて)向かいて進む」。(讃美歌385)
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