礼拝説教


2010/5/30 聖霊降臨節第2主日礼拝

       「聖なる無駄に生きる」

          

協力牧師 中野  実

マルコ福音書14:1〜11


◇主イエスがベタニア村で食事の席についていた時ある女性が姿を現し、高価なナルドの香油の入った壷を持って来て、それを壊し、全部それを主イエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人々は憤慨して「なぜ香油を無駄遣いしたのか?この香油は300デナオリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言った。冷たい正論である。

◇しかし主イエスは、「なぜ、この人を困らせるのか?私に良いことをしてくれたのだ」と言われる。しかもこの香油注ぎは、私の葬りの準備なのだと言う。もし彼女が口をきいたら、「いいえ、私はそんなつもりで香油を注いだのではありません。ただ心が騒ぎ、混乱して、そんなことをしたのです」と答えたかもしれない。しかし彼女の混乱した振る舞いを主イエスは一方的に高く評価された。

◇私たちが何かを心から大切にしたいと思う時、冷静ではいられなくなる。心を騒がせ、混乱してしまう。冷たい正論を述べた人々のように、冷静な計算などできない。それを大切にしたいあまり、心を騒がせながら何かをせざるをえない。そんな私たちの姿を主イエスは御覧になって「わたしに良いことをしてくれた」と言ってくださる。

◇これから主イエスは十字架への道を進まれる。神の子である自分が屈辱の極みのような十字架刑で殺される。そんな仕方で自分の命を献げるのは無駄ではないか?主イエスはそんな思いを抱えつつも最も無駄な事のために自分のすべてを献げられた。それによって、神に敵対する私たちの罪は赦され、敵をも愛し救う神の恵みが明らかにされた。究極の無駄とも言えることを主イエスは実現してくださった。もし神様が天の高い所にいて、動揺することなく、すべて計算づくで物事をなされる方だったら私たちの救いは成し遂げられなかった。愛する価値のない私たちを愛するために、神ご自身心を騒がせ、動揺される方であった。キリストの十字架は単なる無駄にしか見えない、神様の混乱した行動にしか見えない。しかし人間の知恵をこえた仕方で神様は私たちの救いを実現してくださった。

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