礼拝説教


2010/7/11 聖霊降臨節第8主日礼拝

       「はっきり見えるように」

牧師 大村 栄

マルコ福音書8:14〜26


◇弁当を持って来なかったことに気付いてうろたえる弟子たちを主イエスは、「17:なぜ、パンを持っていないことで議論するのか」と叱られた。主が大勢の群衆にわずかのパンと魚を分け与え、皆が満腹したあの奇跡を、弟子たちは忘れている。「19:『わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』弟子たちは、『十二です』と言った」。そうやってあの奇跡を思い出させ、最後に「21:イエスは、『まだ悟らないのか』と言われた」。

◇弟子たちが悟るべきは、主イエスが共におられるなら、自分たちはパンを持っていなくても良かったということだ。私たちも信仰的記憶喪失状態に陥りやすい。恨みや不満、誇りや自慢は持ち続けるが、自分が無力であるにもかかわらず、神の恵みによって生かされているという感謝は忘れやすい。

◇主がなさったパンと魚の奇跡は、人を生かす業だった。11節以下に「人々はしるしを欲しがる」という記事があるが、聖書が記す「しるし」は命に関わる愛の業である。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)。どんなしるしよりも大きなこの事実を見つめること、信じて受け入れることが、私たちの信仰の原点だ。

◇「22:人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った」。この盲人との出会いの記事を通して、私たちも主イエスと出会うことの意味を知らされる。

◇続いて主は盲人の目をいやし、「23:何か見えるか」と尋ね、彼は「24:人が見えます」と応じる。この時、彼が最初に見たのは目の前の主イエスではなかったか。そして「25:イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」。神の愛の最大のしるしであるキリストが見えてから、人は次に「25:何でもはっきり見えるように」なるのだ。

◇「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)。

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