礼拝説教


2010/7/25 聖霊降臨節第10主日礼拝

       「仕える者になりなさい」

牧師 大村 栄

マルコ福音書9:33〜37


◇「33:だれがいちばん偉いか」と議論しあっている弟子たちに対して主イエスは、「35:いちばん先になりたい人は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われた。そして子供を抱き上げて「37:わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われた。

◇8:31以下の受難予告では、「35:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う」と言われる。自分を高めたい、つまり「自分の命を救いたい」と思っている私たちに、主は無力な、しかし時には悩ましい子供を抱き上げて、自分の持っている時間や労力を、これらの者たちに捧げて仕えることが大切なのだよと言われる。私は十字架において命を捧げようとしている。あなた方も自分を失うこと(差し出すこと、捧げること)を恐れないなら、そのとき私に従うことになるのだよ、と言われた。

◇さらに「37:わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。次の10章には「15:子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とある。子供を受け入れる者はキリストを受け入れ、神を受け入れ、「神の国」(天国)へ入ることを許される者なのである。

◇「35:先になりたい人は、すべての人の後になり…」。「先」や「後」の順序は人間の競争心を超えて神の支配の内にある。しかも本来「先」=プロトスは原点を意味する。先頭よりむしろ出発点。「後」=エスカトスは最後に来るもの、歴史の行く末の意味。単なる目先の競争よりも、壮大な神の歴史の中で自分の立ち位置を見極め、仕えて生きる生涯の目標や道筋を見極めていくということに、キリスト者の生き方の使命と喜びがあるのではないか。

◇歴史の見張り役としての使命を持って生きることまでも含めて、これが主が「すべての人に仕える者になりなさい」と命じられるキリスト者の生き方なのであると言えよう。先立ち行かれる十字架の主に従って、天へと続くこの道を歩んで参りたい。

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