礼拝説教


2010/8/22 聖霊降臨節第14主日礼拝

       「隅には置けない」

伝道師 五十嵐成見

マルコ福音書12:1〜12


◇1節では、葡萄園の主人が農夫たちのために十分な下準備をしてから、葡萄園の世話を任せたことが描かれている。農夫達の働きは、既にその仕事に取り組む前から、整えられていた。

◇今年も大島藤倉学園ワークキャンプが行われた。下見に行ったとき、すぐ外に出て逃げるかもしれない利用者さんをずっと見ていておられる職員がおられた。そのことだけに集中するのは精神的な負担が大変大きく、職員側のケアも充実させないといけない、とワーク担当の職員が話しておられた。キャンプは、現場の方々の献身によって成立していることに気づかされた出来事だった。

◇私達が行ったことは、ほんの僅かなことだった。折り紙をおって、手をつないで、話をしたり聞いたりしただけに過ぎない。しかしその些細で僅かな業を心から喜んでくださり、大きなものと受け止めてくださった利用者の心こそが尊く、感動を呼び起こす。キャンプの恵みは、私達が作り出すものではなく、既に備えられ、整えられてていた。

◇農夫達は、既に備えられている恵みを完全に蔑ろにし、クーデターを起こした。しかし、主人は多くの僕が殺されたにもかかわらず、愛する息子をも送る。愚直に主人は農夫の良心を信じた。息子は虚しく殺されるが「家を建てるものの捨てた石、これが隅の親石となった」(10節)という詩編118編の言葉が成就された。十字架の出来事である。私達はこの捨てられた石である主イエスを人生の基礎とする。

◇この喩え通りに成就しなかったことがある。主人は農夫達を殺さなかった。僕を次々と殺され、愛する息子まで殺されて報復を願わない親がいるだろうか。しかし主人である神は、愛する息子、主イエスのいのちを失っても、赦しの愛に徹底的に立たれる事によって彼らの救いを願った。これが神の愛である。私達はこの愛に人生をかける。私達の愛を遥かに越えている神の愛が、この私にも及んでいることを信じて生きていく。この愛は既に、私達に及んでいる。神の恵みは既に、備えられている。

 
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