2010/9/26 聖霊降臨節第19主日礼拝
「信仰の弱い者」
牧師 大村 栄
マルコ福音書14:26〜42
◇最後の晩餐の後、ゲッセマネに向かう途中で主イエスは弟子たちに、「27:あなたがたは皆わたしにつまずく」と宣告された。しかし続いて「28:しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」とも言う。主イエスとの出会いの場、ガリラヤで復活後の再会が約束されている。
◇しかしペトロは将来のガリラヤでの再会より、このあと「皆つまずく」と言われたことがショックで「29:たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と強く主張した。それに対して主は「30:あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と宣告されたのである。そしてそれは後に実現する。
◇続くゲッセマネの祈りの場面には、主イエスの苦悩の姿が見られる。「35:アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。前半の祈願から、「しかし」以下の後半に祈りが発展するためには、相当の決断が必要だったろう。いやそれ自体が「祈り」の中で起こる偉大な出来事なのだ。
◇十字架を前にして恐れおののくイエス、そしてその主をお支えできずに眠りこける弟子たち。十字架の出来事はそういう人間の弱さを露呈している。主は恐れおののきつつも、十字架の運命を受け入れていった。勇気を持ってその運命を覆すのではなく、もっと深い勇気を持ってそれを受け入れた。それが神の子のなさりようだった。「本当に、この人は神の子だった」。そう言ったのは、空の墓を見た女たちではなく、ゴルゴタの丘で主が息を引き取るのを見たローマの百人隊長だった(マルコ15:39)。
◇ガリラヤでの再会の約束は、弟子たちにとって、あまりにも遠い未来の出来事に思えた。現実の恐ろしさに直面した時、彼らは未来を信じる信仰を忘れて逃げ去った。そういう「信仰の弱い者」たちだった。しかし結局、彼らは自分とはほど遠い存在の主イエスではなく、共に苦しみ悩んで下さる主イエスによって救われ、やがてその主のみあとに従い、苦難の運命を受け入れていく勇気を与えられたのだ。
◇教会は昔も今も、苦難の主イエス・キリストと共に、神の道を歩む。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈りつつ。
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