礼拝説教


2010/11/7 <降誕前第7主日礼拝>

       「荒れ野で聞く神の声」

牧師 大村  栄

ルカ福音書3章1〜16節


◇「2b:神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」。荒れ野は豊かさや安定から遠い所。しかし人はそこで神と出会い、神の言葉を聞く。荒れ野でヨハネは「神の言葉」を受け、「3:罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。「悔い改め」とは<人生の方向転換>である。

◇続いてイザヤ書40:4-5の引用がある。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆神の救いを仰ぎ見る。」第2イザヤの時代において「曲がった道、でこぼこの道」とは、捕囚の地バビロンから故郷へ帰る道の困難さを象徴していた。しかし信仰によってその道が「まっすぐに」、「平らになり」、そして故郷への道をたどることが出来る。

◇新約ではその「道」はさらにもっと大事な故郷、最期に行く「神の国」への道でもある。そこに人生の方向を定めるのが「悔い改め」である。「神の言葉」に聴くことよって「でこぼこ」も平らにされ、歴史と人生の正しい豊かな旅を辿ることが出来る。

◇ヨハネはユダヤ人に、「悔い改めよ」と命じる。彼らが選民意識などの人間の力を過信するのは、それこそが神の国への道を阻む「でこぼこ」だ。自らがそういう愚かさを抱えていることを自覚し、自分の罪を知り、限界を知り、罪を赦される必要を自覚することが、「悔い改め」の実質でもある。

◇ヨハネはそういう道筋を人々に指し示したが、彼自身はそれを実現するメシア(救い主)ではない。「16:わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」。ヨハネは入口までの案内人でしかない。教会も同様だ。救いは最後にその人自身の決断が必要だ。今年もクリスマスに当たって、その決断が与えられることを祈る。

◇かつて洗礼を受けて、神の国を目指す歩みを始めた者でも、しばしば行く手を阻む「曲がった道、でこぼこの道」を体験する。しかしその「荒れ野」においても神の言葉を求めつつ歩むならば、その道はまっすぐにされ、平らな道となる。そういう「主の道」を共に歩む神の民でありたい。

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