礼拝説教


2010/11/14 <降誕前第6主日礼拝>

       「存在の確かな根拠」

牧師 大村  栄

出エジプト記3章1〜15節


◇ミディアンで羊の群を追っていたモーセは、ある日燃える柴の中に、神の呼び声を聞いた。神は彼に圧政に苦しむ同胞イスラエル人をエジプトから連れ出せと命じられる。その際に神は言われた、「5:足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」。「聖所」とされている場所をうやまう感覚は尊いものだ。しかしたとえどんな場所でもそこに神の声が響き、それを聞いて応える応答が起こるなら、そこは聖なる場所だ。教会も見た目だけで聖所だと主張するのでなく、ここでなされる礼拝の内容全体によって神の臨在が証しされ、礼拝そのものが聖なるものとなるようにしたい。

◇モーセは神の召命に応える自信はなかったから、「11:わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」と問い返す。どうして私なんかに、そんな大きなご用が出来ましょうか。しかし神はいつも、自信のない人をあえて選んで用いる方だ。その代わり「12:わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と言って励まされる。

◇しかしモーセはまだ納得しない。どういう神が一緒にいて下さるのかを知りたくて神の名を尋ねる。すると神は、「14:わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えた。英語では「I am who I am」。存在を意味するBe動詞を重ねて、ご自分は実存の根底を支えるものであると言う。

◇私はこれからどうなるんだろう。最期はどうなるのか。そんな疑問が沸いてくる時も「恐れるな、わたしはあなたを購う。あなたはわたしのもの」(イザヤ書43:1)。と言って下さる神こそが、何よりも確かな私たちの「存在の根拠」である。「何があろうと私は神であり、あなたと共にいる」と言われる神によって、「11:わたしは何者でしょう」との私たちの根本的な問いに答えが与えられる。

◇その神が、共にいて下さる愛のしるしとして、クリスマスにこの世にひとり子を世に下さった。その神とキリストに出会う礼拝を捧げる場所が私たちの「聖所」であり、その礼拝が私たちのアイデンティティーの源であり、実存を支えるものなのである。

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