2010/11/21 <降誕前第5主日礼拝>
「約束を果たす日」
牧師 大村 栄
エレミヤ書33章14〜26節
◇今日は教会暦で一年の最後、「終末主日」と呼ぶ。紀元前6世紀、ユダの都エルサレムに「終末」が来たかと思われるような悲劇が起こった。ダビデ王朝最後の王ゼデキヤは、バビロニアの傀儡でありながらエジプトの援助を求めたので、バビロンの王ネブカドネザルは激怒してエルサレム包囲を命じ、3年に及ぶ兵糧攻めによって激しい飢えや病気が都を襲った。その時の悲劇を歌ったのが「哀歌」だ。
◇ついにバビロニア軍が攻め込んでゼデキヤ王は捕らえられ、息子たちを目の前で殺されてから両目をつぶされ消息不明となる。エルサレムは全市が火で焼かれ、祭司などの指導者層は虐殺され、住民は鎖に繋がれてバビロンへ連行された。BC587年。まさに世の終わりかと思われる事態に陥ったのである。
◇しかしその中でエレミヤは語る。「昼と夜とがその時に従って巡るのを妨げることができないように、わたしが、わが僕ダビデと結んだ契約が破棄され、ダビデの王位を継ぐ嫡子がなくなり、また、わたしに仕えるレビ人である祭司との契約が破棄されることもない」(20-21)。現実の厳しさの中で、唯一未来の可能性は、神がご自分で結んだ「契約」が破棄されることはないと言って下さることのみである。
◇しかし「ダビデの嫡子」たるゼデキヤの息子たちは殺されてしまった。一体どこに希望があるのか。ゼデキヤの前の王ヨヤキンはバビロンに連れ去られて生きていた。後にエコンヤと改名し、マタイ福音書の冒頭「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」に登場する。エレミヤの預言した神の約束の成就は、ダビデ王朝の再興にとどまらず、世界の救い主の降誕という偉大なる形で実現した。
◇エレミヤはバビロンに立ち向かって闘えと訴えたのではなかった。我々は敗北する。そういう運命を今は受け入れるしかない。しかしその先に救いはあると語った。捕囚の地においてダビデの子孫が守られたように、苦難の中に未来への希望は育まれる。
◇未来の希望は戦い取っていくものではない。神の救いの計画があることを信じぬくことである。戦うとしたら、それを阻む疑いやあきらめとの戦いだ。たとえ世の終わりが来ようとも、そのさらに先に救いを用意して下さる神への信頼を持ち続けたい。
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