2010/12/12 <待降節第3主日礼拝>
「神はお前のただ中に」
牧師 大村 栄
ゼファニヤ書3:9〜17
◇ゼファニア書は紀元前7世紀の預言。不信仰におちいっていた民に、預言者ゼファニアは神の裁きの警告を発した。しかしさばきに終わらず、その先に救いがあると告げる。
◇「9:その後、わたしは諸国の民に、清い唇を与える。彼らは皆主の名を唱え、一つとなって主に仕える」。神の裁きは、すべてを消滅させるために行われるのではない。その先に救いをもたらし、諸国の民が「一つとなって主に仕える」という世界の一致、神の国の実現をもたらすためである。
◇「12:わたしはお前の中に苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする」。神の国の実現に先立って、不信仰に対する神の裁きが下される。それによって世界が混乱し、その結果多くの者が滅ぼされたとしても、そこに残される民がおり、その<残りの民>によって次の時代が開かれていく。彼らは単に「苦しめられ、卑しめられた」だけではない。時には苦難の体験が、かえって人の性格をゆがめてしまう例を見る。その<残りの民>は「主の名を避け所とする」という、苦難の中でも神にすがる信仰を維持した人々だ。
◇そのような信仰はどうやって養われるか。それは神の憐れみによると言うしかない。「憐」(あわれみ)という字は「隣」(となり)と似ている。隔ての壁を越えて隣人となることが憐れみの心だ。人間の側で罪と傲慢によって高くしてしまった壁を神が乗りこえて、私たちの隣に来て下さった。それがクリスマスの出来事である。「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(ルカ福音書1:78-79、「ザカリアの賛歌」)。
◇さらにその究極はゼファニアの言うように、主が「お前の中におられる」ということだ。「15:イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない」。そばにではなく、近くにでもなく、お前の「中に」主がおられる。それによって私たちは苦難の中にも「主の名を避け所とする」信仰を持ち続けることが出来る。
◇「主はお前の中におられる」ことの実現であった御子の御降誕を、今年も心から喜び祝おう。「14:娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ」。
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