2011/1/2 <新年礼拝>
「わたしは救いを見ました」
協力牧師 中野 実
ルカ福音書2:21~40
◇クリスマスに誕生されてから30~40日後のこと、エルサレム神殿においてシメオンと乳飲み子イエスとの出会いが起こる。何も語れず、何もできない乳飲み子をシメオンは抱きながら、賛美が心からあふれて出てきた。主イエスを抱いただけでシメオンの人生は完成へと導かれた。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」。なぜか?「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。軽々と抱ける乳飲み子において重い神の救いの計画が、全世界の罪を背負って、すべての人間を罪から解放する重い使命が果たされる事実を感じ取ったからだ。この出会いによって、シメオンは年を取ることも死ぬことも恐れないでよい、満ち足りた人生へと導かれた。主イエスとの出会いなしには私たちの人生は完成しえない。
◇この乳飲み子はどのようにしてその重い使命を成し遂げるのか?シメオンの預言によると、乳飲み子は将来人々からの反対をうけ、母であるマリアはまさに剣で心を刺し貫かれるような経験をする。これは主イエスが経験される十字架の出来事を指す。今いるエルサレムにおいて約30年後この乳飲み子は十字架にかけられ、殺される。私たち人間の罪がこの乳飲み子を死へと追いやったのだ。しかし最も暗い闇の中に主イエスは光として輝いてくださった。ここで、十字架刑という人生の最悪の事態の中で一人の犯罪人が主イエスとの出会いを経験したことを想起したい(ルカ22章)。彼は言う。「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」。すると主イエスは答える。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。十字架という最も深い闇が覆っている最悪の事態の中でも主イエスはまことの神へと立ち帰る道を切り開くことができる。
◇なぜ私たちはキリスト者として召されているか?シメオンが神殿に導かれたように、私たちは教会に導かれ、主イエスと出会い、主イエスと共に歩むことこそ人生を完成へと導く唯一の道なのだ、ということを知り、喜びに満たされた。そのような喜びを世界の人々に証言する使命を新しい一年、私たちはそれぞれの場所で果たしてまいりたい。
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