2011/1/30 <降誕節第6主日>
「神のまなざしは誰にでも」
副牧師 五十嵐 成見
ルカ福音書15:11~32
◇レンブラントの絵画で晩年の作品に「放蕩息子の帰宅」がある。弟息子と兄息子、そして父の姿が光と影の巧みな表現法で描かれている。弟息子は、顔よりも背中に光が注がれている。離れていた時も注ぎ続けた父のまなざしの光だろうか。この絵画は、私の中に、弟・兄・父のそれぞれの心が住まっていることを想起させる。
◇弟は、父が生きているうちから財産を要求し、遠い国へ旅立ち、放蕩の限りを尽くし、全てを使い果たした。自分のしたいことをし、欲しいものを手に入れたにもかかわらず、本当には自分が何をしているのかわからなかったのではないか。全てを使い果たす中で、弟は自分の心も魂も擦切らした。残ったものがただ一つあった。虚しさである。
◇私達は弟のような放蕩を尽くす境遇に生きていないかもしれない。けれども虚しさを抱えて生きることは決定的に似ている。あるべき関係、立つべき意志、支え合う心に生きない時、私達は虚しさに陥る。誰もが弟の心を持っている。弟はしかし父を思い起こし「我に返った」。心の底から父にすがった。息子の資格を捨ててもいい、生きられればそれでいい。しかしこの話は父が主人公である。弟息子を見つけるやいなや、走り出し、首を抱き接吻する。弟は父との関係を切らなければならないし自分の意志で切ってしまえると思った。しかし父はどんなに傷つけられようが、この息子の父であり続ける。神は神であり続け、愛は愛であり続ける。背いた背中を見つめ続けられる。「死んでいたのに生き返りいなくなっていたのに見つかった」。私達のことだ。
◇兄は弟のことで怒り、父に反感を抱く。弟と対極の生き方をし、一見父に忠実に仕えているように見えて、尊大さを守るために、小さなことに怒り裁く心がある。それも私達の心ではないか。兄もまた、失われた息子である。
◇私達が生き返り、見いだされるために、主イエスは十字架の上で死なれ、失われたものとなられた。弟も兄も神によって見出されたものに他ならない。共に我に返ろう。父の御心、我らの父なる神の御心に返ろう。
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