礼拝説教


2011/3/20 <受難節第2主日礼拝>

       「自己絶対化との戦い」

牧師 大村  栄

ルカ福音書11:14~26


◇主イエスはひとりの口の利けなかった男をいやしたことにより、「15:あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」との言いがかりをつけられた。イエスはそれに対して丁寧に反論しているが、論敵にはイエスに対する深い敵意と憎悪があるのを感じる。自分たちの法則に逆らい、秩序を乱す者は悪人だ。そんな者は悪霊に取りつかれているに違いないと考えたのだ。

◇そのように新しい出来事に心を閉ざさせ、頑なな「自己絶対化」に陥らせることこそが、悪霊の働きと言えるのではないだろうか。人間は神へのまったき信頼の内に、勇気と希望をもって生きる者に造られたのに、悪霊はこれを、恐れや不安や憎しみに生きる者に変えようとする。キリストの使命は、この悪霊の計略を阻止し、世界と人間を神との正しい関係に立ち返らせることだった。そのキリストによるいやしは、肉体のいやしに留まらず、神による天地創造の秩序の回復を意味したのである。

◇そのキリストの戦いの武器は、剣でも槍でもなく一本の十字架。悪霊のはびこる世界の破れを一身に帯び、自ら十字架に死ぬという代償によって、主はこの世に打ち勝たれた。世の悩みを追い払うのでなく、その悩みを全身で受けとめ、これを担ったまま十字架に死ぬことによって、これに勝利された。

◇この戦いは「自己絶対化との戦い」である。しかし、「自己絶対化」の反対は「自己相対化」ではない。むしろ被造物である自分の中に、掛け替えのない自分を見出すことである。自分にだけ与えられた神からの賜物があり、課題があり、自分にしかできない仕事があるということを知るのだ。誰よりも主イエス・キリストこそが、「自分にしかできない仕事」、すなわち十字架への道を歩み、そこで命を捧げるという使命を全うした方なのである。

◇主が私のために担って下さった十字架を仰ぎ、感謝を捧げると共に、その十字架のもとに建つ教会に託された使命を全うしたい。「23:わたしと一緒に集めない者は散らしている」と言われないよう、被造物の秩序を取り戻し、すべての民を感謝と賛美の中に引き戻す教会の業に参与していきたい。

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