礼拝説教


2011/3/27 <受難節第3主日礼拝>

       「自分を捨てて従う」

牧師 大村  栄

ルカ福音書9:18~27


◇ペトロが信仰を言い表す場面は、マタイ・マルコ福音書にもある。「私のことを何者と言うか」と問われて、「みんなは○○と言っています」。しかし「みんな」ではなく、「あなたは私を誰と言うか」と聞かれて、彼は「神からのメシア(救い主)です」と答える。

◇ルカだけに「18:イエスが一人で祈っておられたとき」という記載がある。しばしばイエスは重要な決断の時に一人で祈る。ここではペトロの信仰告白に先立ってイエスが祈り、するとペトロは、「みんなはこう言っている」という客観的評価ではなく、「私にとってイエスとは誰か」という告白へと導かれる。こういう信仰の決断は人間の内側で自然に起こるのではない。主の祈りに導かれて起こるのだ。

◇信仰を告白したペトロと弟子たちに、主イエスは「23:わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と命ずる。それはどうすることか。気負い込んで自己犠牲的な覚悟を決めることではない。「自分の十字架」、すなわち人生の課題は自分で選び取るものではない。主イエスの十字架が「人の子は必ず、そうすることになっている」(22節)と、神のご計画であると言われるように、私たち一人一人に相応しい十字架が神によって定められており、それがふさわしい時に託されるのである。

◇十字架は「試練」と言い換え得る。「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(?コリント10:13)。神が必要な支えを与えて下さることを信じよう。「24:自分の命を救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う」。自分で自分の命を管理し、生き方を築き上げ、それを崩さずに生きようとする人は、最終的、本質的にはそれを全うしない。キリストの生き方に従って、試練も課題も神が自分に与えたもうたものとして謙虚に受けとめる時、そこに最終的、本質的に命を全うする道がある。

◇私の命を意義あるものとするために、主は先だって十字架への道を歩まれた。その主イエスに従って、真実に信仰の道を歩みたい。背後に、主イエスの祈りと、神の力強い支えがあることを信じて。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com