礼拝説教


2011/4/3 <受難節第4主日礼拝>

       「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」-2011年度教会標語-

牧師 大村  栄

イザヤ書26:1~6


◇3月11日(金)に「東日本大震災」が起こった。地の基が揺らぎ、海が境を超えて陸を襲い、多くの人の命を奪い、町と田畑を破壊した。その悲劇の直前の3月6日(日)に、これからの一年間覚える聖句として決まったのが、「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」(イザヤ26:4)である。

◇イザヤがこの言葉を告げた紀元前8世紀にも大きな絶望があった。アッシリアが世界を席巻し、世の終わりかと思うような恐ろしい事態が起こり、「神の世界審判」かと思われた。「地は酔いどれのようによろめき、見張り小屋のようにゆらゆらと動かされる」(24:20)。まるで今回の大震災のようだ。

◇先週発行の「はこぶね」300号に私は「創刊号を読み直す」という題で文章を書いた。創刊号は53年前の1958(昭和33)年10月5日の発行。巻頭言は大村勇牧師による「我ら何をなすべきか」。牧師はその前月に伊豆の天城山荘での会議を終えて帰る途中、死者行方不明1269名の悲劇を生んだ「狩野川台風」に遭遇した。「日本の教会は今日の日本の苦闘や悲しみの中で、イエス・キリストがすべての民の主であることを告白し、それによって人々に勇気と希望とを与えるものとならねばならない」と記している。

◇イザヤは逆境の中でも神への信頼によって「勝利の歌」(26:1-6の小見出し)を歌う。「1:その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある」と歌った。その「都」は<教会>のことだと考えて良いだろう。教会には信仰によって「人々に勇気と希望とを与える」という使命がある。それを担うためには、神へのまったき信頼が必要だ。そこで「4:どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」と勧められるのである。

◇信頼を実践し、養うのは「祈り」だ。震災以来、多くの場所でキリスト者たちは被災地を覚えて祈っている。祈りは信頼の告白であり、信頼を養うものだ。祈ることによって、神がこの祈りを受けとめて下さるという信頼へと養われる。祈らない者にそれは分からない。今私たちは祈りによって変えられ、信仰によってこの時代の希望を見出していきたい。

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