2011/4/10 <受難節第5主日礼拝>
「ぶどう園と農夫 」
副牧師 姜キョンミ
ルカ福音書20:9~19
◇すべてを失い困難な生活を強いられている方々の上に、神様の支えが豊かにあるように祈ります。
◇9節はルカ福音書では簡略に記しておりますが、マルコ福音書には主人が、ぶどう園を整える様子が丁寧に記されています。マルコ福音書12:1において「垣を巡らしし、搾り場を堀り、見張りのやぐらを立て」たと丁寧に記されています。この記述から、主人がどれだけぶどう園に熱心になっているが伺えます。この熱心さには、神様のご自身の民に対する愛が示されています。神様は、ご自身の民を愛し、その民が実りを実らせることを期待されておられます。ここで実りとは、言うまでもなく信仰の歩みにおける実りです。神様の愛に応えて人々が歩むことを求めておられるのです。
◇更に、主人は、ぶどう園の管理を任せた農夫たちを信頼しています。農夫の下に、僕を三度も送るのです。ここで、ぶどう園の主人が送った僕たちというのは、預言者たちのことです。しかし、イスラエルの民は、預言者たちの言葉を受け入れませんでした。主なる神は、ぶどう園の主人がぶどうの収穫を期待するように、ご自分の民が、立ち返り、神の民として信仰の実りを実らせること願いました。
◇主人の期待の大きさは、僕を送った後に、愛する一人息子を送ったということに最も明確に現されています。僕を送り、裏切られたにも関わらず、農夫の下に自分の愛する息子を送るのです。そして、農夫たちは、この一人息子を殺してしまいました。
◇このたとえは、祭司長や律法学者、長老たちに語られたことで、自分たちには無縁なことと考えてはなりません。私たちは、神の御民として歩む中で、主なる神様から実りを実らせることを期待されています。しかし、私たちは、そのような歩みをすることが少ないのではないかと思います。自分を人生の主人にしてしまう。主イエスの御言葉に耳を傾けようとしない。主が繰り返しご自分に立ち返ることを促しておられるのに、その御言葉を聞かずに、自分の栄光だけを求めて歩んでしまうことがあります。そのような時、私たちは、神の愛する一人子キリストを心の中で殺してしまうことになるのです。
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