礼拝説教


2011/5/8 <復活節第3主日>

       「私が中心ではなく」

副牧師 五十嵐 成見

ルカ福音書24:36~53


◇復活された主イエスは弟子達の真中に立たれ、「平和があなたがたにあるように」と言われた。キリスト者の交わりは全て、主イエスに真ん中に立っていただく交わりであり、キリスト者以外の出会いもまた、主イエスに入っていただく出会いである。故速水優兄は、様々な立場の人と交流・交渉する際「この人もイエス様の十字架によって赦されなければならない罪人である」と思って心に平安を与えられたという。それによって「卑屈になるのでもなくまた優越感を持つのでもなく」、同じ人間として語り合えた。私達は人が向き合う上での最善の関係を主イエスによって持つことができる。そしてそれはまた、日常の生活の人々-伴侶、親、友人-の間でこそ行われなければならない。

◇椎名麟三(作家)は、主イエスが魚を「ムシャムシャ食ってみせられ」たところで復活を信じた、という。弟子の日常、日々の食卓の中に飛び込まれた主イエスを見出した。復活の主イエスは私達の日常におられる。私達の生活の隅々にまで、復活の喜びの力と希望は行き届き、浸透している。これが私達の生きる本当の世界の姿である。

◇「主よ、私達に無くてならぬものが二つあります、あなたの憐れみによって与えて下さい、日ごとのパンと罪の赦しを。」(ドイツの食卓の祈り)食卓につく時、罪の赦しが日ごとのパンの糧と同じように与えられていることを感謝し祈る。その時十字架と復活の主イエスがその食卓に座してくださる。

◇忘れられない食卓がある。震災ボランティアに行き、被災されたご夫妻とご飯を食べた。悲壮と悲嘆が支配するかと思ったら、笑いがあり希望があった。主イエスが私達の真中に立ってくださることを感じた。ルカ福音書は最後の最後で喜びを語って終わる。「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(52-53節)私達の人生には様々なことがある。悲しみも苦しみも憎しみも虚しさも付きまとうだろう。しかし、最後に聖書は喜びを語り伝える。だから私達は人間の悲しみに決して敗北しないのだ。神の喜びを、御言葉の勝利を、信じて生きていくし、いけるのだ。

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