礼拝説教


2011/5/22 <復活節第5主日>

       「キリスト者であるとは」

牧師 大村  栄

ガラテヤ3:23~4:7


◇パウロはキリスト者たちに向かって、「26: あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。27:洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と呼びかける。神との約束を破って禁断の果実を食べたアダムとエバは、罪を隠すために「いちじくの葉をつづり合わせ」て腰を覆った(創世記 1:7)。神は彼らを楽園から追放するが、その際彼らに「皮の衣を作って着せられた」(同3:21)。皮の衣はいちじくの葉よりずっと丈夫だ。罪を見逃さない神の正義と同時に、豊かな憐れみが感じられる。

◇しかし人間はその憐れみの衣もやがて脱ぎ捨て、再び不信仰と罪の本質をさらけ出した。そこで神はもう一度愛と憐れみを注いで、人間に新たな衣として「キリストを着る」ことを可能にして下さった。

◇さらに、「29:あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。キリスト者は神の祝福を受け継ぐ相続人なのだが、未完成な「未成年」であると言われる。「1:相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕(=奴隷)と何ら変わるところがなく、2:父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます」。「後見人や管理人」は3:24では「養育係」と言われており、それが意味するところは「律法」である。

◇「24:律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係」。しかし逆にその律法によって萎縮していた私たちを、神は未完成なままでわが子として迎えることを決意された。「5:律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさる」という決断だ。それによって私たちは、神を「6:アッバ、父よ」と呼ぶことができるようになった。もはや律法によって萎縮したり、それゆえに愚かな迷信に惑わされたりすることはなくなった。「7:あなたがたはもはや奴隷ではなく、子」なのだから。

◇神から与えられた愛の衣としてのキリストを着る者は、それによって初めて、自らを正しく獲得し、本来の人間性を発揮できるのだ。「キリスト者であるとは、人間であることだ」(D・ボンヘッファー)。



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