2011/7/24 <聖霊降臨節第7主日>
「生命の回復―究極の慰め」
牧師 大村 栄
ルカ福音書7:11~17
◇ナインの村にて。「12:ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであった」。未亡人の一人息子の死は痛ましい悲劇だ。「棺」は死が確実であることを示す。
◇3月11日の東日本大震災ではあまりにも大量の死に棺が足らず、仮の形で葬りがなされた。丘の上に沢山の土葬の墓地が出現したのを石巻市で見た。やもめの個人的な悲劇とは別に、私たちは今年、大量の死という別の種類の悲劇に遭遇した。
◇「13:主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」。「憐れに思う」は、はらわたが痛むという意味。ルカではほかに2回ある。「善いサマリア人」が「その人を見て憐れに思い、近寄って」(10:33)行った場面と、「放蕩息子」が帰って来た時に、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(15:20)場面。いずれも自分の立場を超え、わが身を忘れて行動してしまう場面でこの言葉が使われる。ナインのやもめに対しては、キリストが神の子の立場を超えて、たった一人の女性の悲劇にはらわたの痛みを覚え、そこに近づいて行かずにおれなかったことを示している。
◇やもめに「もう泣かなくともよい」と言い、棺に手を置いて、「14:若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。「15:すると、死人は起き上がってものを言い始めた」。このことが出来るのは唯一、自ら死に勝利された神の子キリストのみだ。この時キリストの復活はまだ実現していないが、そのことを前提とする憐れみの業と考えてよいだろう。
◇「あなたが蒔くものは、ただの種粒です」(?Tコリ15:37)。「種」=我々の肉体は限りあるものだ。しかしキリストの復活と共に、「蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」(同43)。「いのちの終わりは、いのちの始め」(讃美歌21-575)。終わりを初めに変え、死を一時的中断に変えたのが、十字架と復活の主キリストである。
◇このひとり子を賜うほどに世を愛された神の愛の中に、私たちは個別の悲しみにも、大量の悲劇にも「究極の慰め」を見出すことが出来るのである。
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