2011/8/7 <平和聖日>
「聖戦とは何か―聖書の真実 」
牧師 大村 栄
ヨシュア記6:12~20
◇旧約聖書の時代、戦争は経済活動だった。家畜や物資は奪って利用し、捕虜は奴隷として徴用した。しかしイスラエルでは「主の戦い」(民21:14)という「聖戦」の理念によって戦争を実行した。それは自らを肥やすための戦争でなく、神に栄光を帰するため、異教徒や偶像礼拝を一掃することを目的としていた。戦利品はすべて神への捧げ物とされた。
◇ヨシュアは民を率いてヨルダン川を渡り、カナン地方に入って最初の町エリコを攻め落した。ヨシュアは民に、「17:町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ」と命じ、「21:彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」。残虐な行為だがこれが「聖戦」の規定に即したやり方である。
◇イスラエルはやがて、周辺諸国と同じ軍事大国を目指し、神よりも人間の力に頼る国となって「神の民」のアイデンティティーを失った。それを指摘して抗議した前8世紀の預言者イザヤは、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない 」(イザヤ書2:4)という平和への幻を語った。
◇旧約聖書は「聖戦」の意義を語ると同時に、平和への幻を語る。新約聖書はその両方を生かし、旧約の「聖戦」に新しい意味を与えた。「聖戦」は神のための戦いであった。その神は、旧約においてはイスラエルの勝利を望まれたが、その民の神よりも人を頼る不信仰をご覧になって方針を変更された。それはイスラエルを超えて、すべての民が神の民として生きることを望む方向への変更だった。だから独り子を犠牲としてすべての人に永遠の命を与え、滅びを免れさせることを望まれたのだ(ヨハネ3:16)。
◇この神への捧げ物は、一人でも多くの人を神の愛の中へと導くことだ。その計画のために用いられる教会は、自らを肥やしてはいけない。人の手からは「滅ぼし尽くす」ような仕方で、すべてを神に捧げる。独り子をお与えになった神の愛を宣べ伝え、それによって憎しみや暴力に傷つく世界に救いを実現していく。それが私たちの戦う「聖戦」だ。
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