礼拝説教


2011/8/28 <聖霊降臨節第12主日>

       「本当に大切なこと」

坂下道朗 先生 (阿佐谷東教会牧師)

ミカ書6:6~8 マタイ福音書6:25~34


◇ミカは紀元前8世紀、南王国ユダの預言者。エルサレムから30キロほど離れた町の出身で、その預言の特徴は、貧しく弱い立場にある者の代弁者として、エルサレムを中心とする都会の支配階級の横暴を批判するものだった。彼らは貧しい人たちから搾取した富を神殿での豪華な捧げ物に用いた。しかも自分達に見返りがあると思い捧げ物がエスカレートする。7節の「幾千の雄羊、幾万の油の流れ」は、豪華な捧げ物がなされていたことを表す。

◇エスカレートの先にあるのが、子どもを生け贄として捧げる事だった。パレスチナ土着の異教の習慣が残っていた。子どもという親にとって大切なものを捧げることが、最も価値ある捧げ物と考えられたのか。ミカは、神はそれらを喜ばれるだろうかと語った。勿論、神はお喜びにならないし、神からの好意を得ることはできない。大切なことはすでに告げられている。「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」

◇しかし子どもを捧げるというのも昔話とは言い切れない。現代にも大きな犠牲を払えば、より大きな見返りを得ることができるという信仰がある。自分の願いを成就させ子どもの幸せを願って、手段も方法も選ばずに、あらゆる手だてを尽くす。人のことなど顧みることなく、自分達の幸せだけを願っていく。教育熱心も、古代の社会とは違った仕方で子どもを焼き尽くそうとしているのかもしれない。

◇「神と共に歩む」ことはどういうことか。豪華な捧げ物をするという敬虔さを装って、その陰で貧しい人々を虐げていた。それは神の喜ばれることではない、とミカは批判した。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこととは、貧しい人々を愛することであった。無論彼らの神への愛がなかったわけではない。しかしそのこと故に隣人を愛することを疎かにした。自分が「神と共に歩む」のではなく、自分のために「神を共に歩ませよう」としてしまった。大切なことは神を中心に置き、その周りに私たち人間が手を携えて共に生きていくということであろう。そのことを神は喜んでくださる。

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