2011/9/18 <聖霊降臨節第15主日>
「高ぶる者とへりくだる者」
牧師 大村 栄
ルカ福音書14:7~14
◇宴席で上座に座った後にもっと下座へ移るように言われたときの気まずさ。末席に着いたのにもっと上座に着くよう促された時の誇らしさ。そんな日常の光景を素材にして、主は「11:だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と語られる。自分がどこに座るべきか、どんな地位や立場を取るべきかは自分で決めるのではなく、ただ与えられたまま謙虚に受け取るべきである。
◇謙虚さを学ぶ最大のお手本は主イエスのお姿。フィリピ書2章の「キリスト賛歌」。「6:キリストは、神の身分でありながら、…8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
主は神の意志に従って、世の罪を肩代りして死なれた。この最も低い席に座った方が、のちに一番の上席を与えられた。「9:神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。このキリストに結び合っていく時に、私たちにも賜物として謙遜の姿勢が与えられるのである。
◇後半は招く側への勧め。食事に招くのは最良の愛のわざを象徴する。詩編23:5「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる」。その食卓に招く相手は、友人や身内の者や有力者だけであってはならない。「12:その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」。返礼し合うような関係の人に対して行う行為は、愛のわざとは言えない。
◇「13;むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14:そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」。この人々は当時の社会生活(=信仰共同体)から除外されていた。彼らを食卓へ招くとは、すなわち信仰共同体に呼び戻すことであり、その中心である礼拝に迎えることだ。人を礼拝に招くことこそが最大の愛のわざなのである。
◇神に置かれた自分の持ち場で精一杯、しかし謙虚に愛の業に励む者でありたい。その時に目標となるのは、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで(神に)従順」であった御子イエス・キリストのお姿にほかならない。
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