2011/10/2 <世界聖餐日>
「新しい人間に-放蕩息子のたとえ」
牧師 大村 栄
ルカ福音書15:11~32
◇弟息子は父が象徴する神との関係(縦軸)を拒否し、兄が象徴する人間関係(横軸)も拒絶し、自由を求めて飛び出していった結果、座標軸を失って自分の位置を見失っていた。そのことに気づいた時、彼は「17:我に返って」、罪の告白を行うことを決意した。「19:もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。父にそう言おうと心に決めて帰っていった。わが家に近づくと「20:まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。
◇用意していた告白の半分しか言わない内に、父は僕たちに命じて服や履き物を調えさせる。罪の告白が不要だったのではない。逆にそれが前提条件だったのでもない。父の愛がより大きいのだ。
◇父の深い愛の中で、弟息子はこの家の家族であることが改めて確認され、さらに「24:この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って「祝宴」が催される。悔い改めを持って神の家に帰って来た者を迎えて行われる喜びの「祝宴」、それが教会の礼拝であり、私たちは毎週この「祝宴」において新たに、神の愛と赦しの恵の中に生きる者として、自分を取り戻していく。
◇兄息子は、弟息子の帰宅を皆が喜んでいるのが気に入らず、外に立っている。正しく生きてきた自分こそ愛される資格があると思っている。そんな苛立ちを抱えて家の外に立ち続ける兄。彼も、もう一人の放蕩息子と呼ばれなくてはならない。彼に対しても父は、弟を迎えた時と同様、外に出てきて共に立ち、「子よ」と優しく呼びかけ、豊かな恵みの内に置かれていることを気付かせてくれる。そのとき彼は「祝宴」に戻って行った。
◇座標軸からはずれて、本来の位置を失い、時にはそれゆえに死んだようになっている私たち。しかし失われたものに走り寄り、これを受け入れ、赦し、愛して下さる神の愛に触れて、私たちは本来の自分を取り戻していく。二人の放蕩息子たちのように、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」という「新しい人間に」変えられる事実が、主の日の礼拝ごとに起こるのである。
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