礼拝説教


2011/10/16 <全家族礼拝>

「目を上げて」

牧師 大村 栄 

創世記13:8~18


◇アブラム、後のアブラハムは「わたしが示す地に行きなさい」(12:1)と神に命じられて出発した。エジプトでは自分の美しい妻のサライを妹だと偽って自分を守ろうとしたが、神からのお叱りも受けず、何も失わなかった。その時彼は「4:彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所」に戻った。神の赦しの中で、信仰の原点に立ち帰り、もう一度そこから始め直そうとしたのだ。

◇私たちも苦しいときに、原点に帰ることが必要だ。人生の究極の原点は「誕生」。それは自分の選択や決断によって始まったのではなく、神の選びの中で始められた。神の意志によって始まったところに、命の原点があることを覚えたい。

◇原点に立ち返ったアブラムはロトと別れることを決意し、ロトに先に選択権を明けわたす。エジプトでの苦い体験から、彼には他者を押しのける強引さがなくなっている。「10:ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、…見渡すかぎりよく潤っていた」。ロトは当然、その潤った低地を選んで進んでいった。

◇ロトが去ったあとアブラムに神が語りかける。「14:さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」。目を上げなさいと言われたということは、それまで彼はうつむき、うなだれていたのかも知れない。神はうなだれる人々に寄り添って、「目を上げよ」と言われる。

◇ロトもさっき「目を上げた」(10)が、それは良いものを物色する視線。そして良い方を選んだ。アブラムは伏せていた目を神によって上げさせられた。そこに見るのは荒涼たる荒れ野だが、神が言われた「目を上げよ」は、目の前の現実のさらに上を見よ、すなわち「神を見よ」、「私を見よ」とのご命令だ。目前の困難さに私たちは目を伏せたくなる。東日本大震災とその後の原発の被害。苦しいことがたくさんあるけど、その現実の向こうに神の備える救いがあるとの希望を持ちたい。

◇詩編121編1-2節「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」。

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