礼拝説教


2011/10/30 <降誕前第8主日>

「ひとり子を与えるほどに」

牧師 大村 栄 

ヨハネ福音書3:13~21


◇明日10月31日は宗教改革記念日。1517年のこの日、ドイツ中東部ウィッテンベルクで、マルティン・ルターが、教会の扉に95ケ条の提題を掲げた。その内容は、当時行われていた免罪符の販売や、煉獄の教えを批判するものだった。これが切っ掛けとなって宗教改革が始まり、ドイツから全ヨーロッパに広がった。宗教改革の精神は「聖書のみ」と「信仰のみ」の二点に集約できる。

◇「16:神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この言葉はルターが「この一節だけで小さな聖書である」と言ったほどに、聖書全巻の集約とも言うべき尊い言葉である。

◇しかし私たちの周囲には「独り子を信じ」ない者も大勢いる。彼らはどうなるのか。「18:御子を信じる者は裁かれない」に続いて、「信じない者は既に裁かれている」。しかし神が滅びを望んでおられるとは思えない。今日の招詞ヨハネの手紙一4:9にも、神が独り子をお与えになったのは、私たちが「生きるようになるためです」、「ここに(神の)愛があります」と明確に言われている。

◇神は御自分に似せて造られた人間が、滅んでいく状態を見過ごしに出来ない。旧約時代には繰り返し預言者を通して、人間に本来の姿を取り戻せと警告した。しかしその警告に耳を貸さなかった人間に対して、これを見捨ててしまうことなく、独り子イエスを差しだし、身代わりにすることによって、人間を罪の奴隷から奪回された。これが神の愛であり、私たちもその愛に応えて、積極的に人を愛せよと勧められている。

◇独り子を与えるほどに大胆に、柔軟になられた神は、かたくなで頑固な人間に、自分からは何もしようとしない人間に先に手を伸ばされ、愛して下さった。礼拝堂のドーム型天井に、身を屈めて人となられた神の姿を見る。そのような神を聖書を通して深く知りたい。そして信じて受け入れていきたい。それが宗教改革の原点である「聖書のみ」と「信仰のみ」に堅く立つことでもある。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com