2011/11/20 <降誕前第5主日>
「真理とは何か」
牧師 大村 栄
ヨハネ福音書18:33~40
◇洗足木曜日の晩に捕らえられた主イエスが、大祭司カイアファの尋問を経て、ローマ総督ピラトによる尋問を受ける場面である。ピラトの最大の関心はイエスが「33:ユダヤ人の王なのか」、つまりローマに抵抗する反対勢力のリーダーなのかどうかだった。反乱の首謀者ならばそれなりの責任を取らせて処罰する。それがローマ人の法に則った合理的な判断である。私たちもそうしている。
◇主イエスは反乱を起こすために世に来たのではない。「37:わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである」と述べるが、ピラトは理解しようとせず「38:真理とは何か」と言い捨てて去る。彼は自分の目の前にいる人が「真理」そのものであることに気づかなかった。ヨハネ14:6「わたしは道であり、真理であり、命である」。生きたイエスが真理であるということは、真理とは、理念や概念ではなく人格である。神が人となられたその人。私たちがそこに身を委ねることが出来るものなのだ。
◇他宗教とキリスト教の決定的な違いは、キリストの存在だ。どの宗教にも神的な超越的な存在はある。しかし、その超越する神が人となって世に来られ、その方によって神を知ることが出来、その方を通して神との交信が行われる。そういう人格的媒介の存在はキリスト教にしかない。
◇ヨハネ8:31「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」。真理を知るとは、知的認識ではなく体験的行為だ。「弟子」は知識を学ぶだけでなく、生活を共にする人のこと。頭で理解するだけでなく、全身でどっぷりと、キリストを賜った神の恵みに生きること。それが私たちの信仰生活である。
◇キリストとの人格的な出会いによって、「真理とは人となられた神なるイエスご自身である」と知り、ピラトのような合理的な、しかしそれゆえに大事なものを見失っている生き方から解放されたい(「真理はあなたたちを自由にする」)。そして「道であり真理である」主イエスを通って、父なる神のみもとに帰る時を望みたい。
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