礼拝説教


2011/12/18 <待降節第4主日>

「喜びの歌を歌おう」     

副牧師 五十嵐成見

ルカ福音書1:57~80


◇ザカリアは天使の御告げに従い、生まれた子にヨハネという名をつけた。そのことによって、沈黙の経験(1:20)をせざるをえなかったザカリヤは口が開き、神を賛美した。その讃美の言葉が67節以下のベネディクトゥスと呼ばれる歌である。祭司として仕え続けてきたザカリヤに相応しい韻律を持つ。ザカリアの日常の中で歌ってきた歌が聖霊によって溢れだし、組み合わされ、遂に救い主を賛美するという新しい歌となった(69節)。歌・賛美は、信仰者たちの信仰の根幹を支えた(1960年代のアメリカの公民権運動等)。そうやってキリスト者はいつも歌によって神の栄光をあらわした。

◇「救いの角を僕ダビデの家から起こされた」(69節)キリストのこと。角とは力の意味。キリストは救いの力を持っている。「我らは…恐れなく主に仕える。」(71節)愛の反対は「恐れる」(ヨハネⅠ4:18)。愛の働きを封じる力が恐れである。恐れは猜疑心を生み、それが次第に膨らみ人間を悪魔的にさえする。振り返ると私達はいかに世界的な紛争から日常的な生活に至るまで、どれだけ恐れにとりつかれた世界・自分に生きていることか。アドベントの蝋燭の火を増やし、神の愛の火が強まっていくことを感じるが、私達は愛の火どころか相手を疑う炎ばかりを燃やしているのではないか。神の愛の火を見つめることとは自分自身の暗闇を明らかにされることでもある。キリストと出会う時、しかしその暗闇が恐れがなくなる。

◇「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし」(79節)バーゼルの病院のチャプレンをしていたシュペリ牧師がイスラム教の女性の看取りを行った時「自分自身の困惑」からその枕下で讃美歌を歌った。翌朝女性の夫からもう一度歌ってほしいと頼まれ歌った後、夫が手の甲にキスし涙を流した。「歌うことの中にどれほどの祝福が隠されていることか。それがキリスト者とムスリムの人々をさえ結びつけた。歌うことの中には天の諸力が働いている」(メラー『慰めのほとりの教会』)。賛美は死の陰に座す者を照らし立ちあがらせる。恐れの中で、暗闇の中で、私達は光の歌・喜びの歌を歌うことができる。

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