礼拝説教


2012/3/4 〈受難節第2主日礼拝〉

「真理を見る目」

牧師 大村 栄

列王記下6:8~17


◇紀元前9世紀の中頃、北イスラエルの王ヨラムの治世に、アラム(シリア)との戦いがあった。アラム軍の作戦は、ことごとくイスラエル側に見抜かれるので王は怒り狂う。家臣の一人が、「12:王よ、イスラエルには預言者エリシャがいて、あなたが寝室で話す言葉までイスラエルの王に知らせているのです」と告げた。王はエリシャを捕らえるため、敵陣深いドタンまで大軍を差し向けた。

◇エリシャの召し使いが朝起きて見ると、「15:軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた」。彼はこの光景に悲鳴を上げ、主人に助けを求めた。するとエリシャは、「16:恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って祈った、「17:主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」。すると「主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た」。

◇肉の目にうつるのは敵の大軍だが、祈りによって信仰の目、霊の目が開けて、強大な天の大軍がそこにいることを知った。この霊の視力を失った時が私たちの危機である。その視力を維持し、回復するために、祈りと礼拝の生活が必要だ。

◇主がシロアムの池で盲人の目を癒した記事(ヨハネ9章)において、イエスを律法違反の罪で起訴しようとするファリサイ派は、イエスを「罪ある人間だと知っている」(ヨハネ9:24)と言う。これは見えないのに見えると言い張るのに等しい。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(9:41)。

◇一方盲人だった男は、正直に証言をしたことによって追放された。キリストを求める彼に主ご自身が現れ、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」(9:37)と告げる。たとえアラムの大軍のような困難に包囲されても、肉の目に迫るその現実の背後に、何万という天の軍勢が控えている。いやそれ以上にキリストがすぐ目の前にいて下さる。その「真理を見る目」を、主によって開かれたいものである。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com