2012/3/18 〈受難節第4主日礼拝〉
「長子の権利を軽んじた」
牧師 大村 栄
創世記25:19~34
◇イサクとリベカの息子たち、兄エサウは狩人、弟のヤコブは牧畜を行う者だった。ある日、疲れて野原から帰って来たエサウは、弟が作っている煮物を欲し、ヤコブは引き替えに兄の「長子の権利」を要求する。空腹のあまり、それを放棄した「34:エサウは、長子の権利を軽んじた」。
◇家名を継承する長子には多くの家督を継承する「長子の権利」があった。イスラエルではさらに「権利」のほかに神との関係における「責任」があった。「イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである」(出エジプト13:2)。神に「初物」を捧げれば、後に続く産物が祝されるとされた。
◇新約時代にもそれは守られていて、例えば主イエスもその誕生間もない頃に、両親が「その子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った」(ルカ2:22)。そういう宮参りの習慣があった。長子=初物は神に属するものとして、聖別されるのだ。
◇エサウは自分自身に与えられた特別な使命と責任を、空腹に負けて放棄してしまった。「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです」(ヘブライ書12:16)。
◇主イエスはヨセフとマリアの長男だが、ヨハネ福音書の冒頭、「初めに言があった。言は神と共にあった」(1:1)からすると、「言」であるこの方は天地創造の初めから世にあって、言わば全人類の長子であった。しかし主はその特権を放棄した。ただしエサウのように欲求のためではなく、長子の「責任」を全うするため、つまり「わたしのものである」と言われる神に、長子である自分を捧げて、それに続く弟や妹たち、すなわち人類のすべてに祝福を与えるためにそうされたのである。
◇「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ書2:6)。これが長子の権利を放棄したということだ。ここに長子の後に続く私たちすべての救いがあるのである。
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