礼拝説教


2012/4/8 〈復活祭礼拝 〉

「キリストの復活」

牧師 大村 栄

マタイ福音書28:1~10


◇日曜日の朝が明けると同時に「1:マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」。この二人は金曜日の午後に主イエスの遺体が墓に葬られるのを確認した。二人は最後まで「61:そこに残り、墓の方を向いて座っていた」。そして翌土曜日の安息日には、ヘロデの番兵たちが厳重に墓の見張りをした。

◇にも関わらず墓は空で、主の天使が「6:あの方は、ここにはおられない」と告げた。「4:番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」が、彼女たちは「6:かねて言われていたとおり、復活なさった」という天使の言葉によって「かねて言われていた」主の言葉を思い出し、「8:恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去」った。

◇すると「9:イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」。絶望の中にも主の言葉を思い起こし、信じて立ち上がった者に、復活の主が出会って下さる。

◇しかしそういう素朴な信仰を妨げるのが、人間の理性による合理的判断だ。実はイエスは死んでいなかった、不滅のヒーローだなどと合理的に考えようとする。だが弟子たちを立ち上がらせ、代々の教会が伝えてきたのは不滅の英雄ではない。主イエスは確かに死んで陰府に降られた。そこは人の手の届かない限界の彼方。しかし主がそこに降られて身を置かれたことによって、そこも神の領域となった。死ななかった不滅の英雄には、それは出来ない。十字架に死んだイエスを通してこそ、死の闇にも神の光が届いたのである。

◇究極の死を死なれたと言うことは、死にきれない私たちの代わりに、主イエスが死んで下さったということでもある。自分の存在が周囲に悲しみや躓きを与えたりしている。古い自分に死んで新しい人間に生まれ変わらなければならないのに、出来ない。そういう私たちのために、主イエスは死んで下さった。

◇主イエスの復活を賛美する前に、私たちは主イエスの死を感謝したい。「その死によりてぞ、我は生きぬ」(讃美歌332)。その恵みを味わうイースターでありたい。

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