2012/5/19 〈復活節第7主日礼拝 〉
「主イエスの死に信頼して」
ヘブライ書2:10~18
副牧師 五十嵐成見
◇ヘブライ書はある学者によれば「深刻な霊的な危機にある」と判断して書かれたものだと言う。私達もまた自分自身や隣人の死によって「霊的な深刻な危機」におかれることがある。
◇人間は「血と肉」(14節)ある者として生まれたが、死という限界を含む命である。本来死は被造物として自然の事柄である。しかし「悪魔」(14節)が、死を恐怖たらしめ、私達を死の恐怖の「奴隷」(15節)にしようとする。しかし主イエスが人間となられ、十字架につけられたことによって悪魔と戦われ、滅ぼしてくださった。主イエスの十字架の死こそが、悪魔の奴隷状態に置かれた「死に打ち勝つ死」であり、そのこちによって私達が神の御手に信頼して委ねる死に生き得るようにされた。
◇けれどもそれを簡単に受け入れられるほど私達の心は真っ直ぐではない。「深刻な霊的な危機」である死の恐れはそれ程に私達の心深くに根をはっている。その危機の中にあってこそ、主イエスは私達の「代表戦士」(10節の別訳)としてその恐れと戦ってくださる方である。
◇「わたしは、…集会の中で、あなたを賛美します。」(12節)詩編22編の引用であり、主イエスが十字架の時に嘆きの声をあげられた詩編である。しかしその嘆きの底にこの神への信頼があった。主イエスが十字架の死を通して、この詩編の心に生き、死んでくださったことによって、私たちが死の恐れを前にしても、いや前にするからこそ、賛美をする道があることを教えてくださった。「集会」、すなわち教会・礼拝の中で、主イエスが「大祭司」として賛美を導いてくださる。今、この時に。
◇集会の中で神の御名を賛美する私達は、主イエスに導かれて、信仰の兄弟と共にある大きな賛美の喜びの祝福の中に一生涯生かされていく。主イエスに導かれる礼拝において、私達はもはや死の奴隷ではない。神の祝福の自由の中を生きているのだから。主イエスの兄弟、神の聖徒の交わりに生きているのだから。
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