礼拝説教


2012/6/17 〈聖霊降臨節第4主日礼拝 〉

「真理をさす指」

ヨハネ福音書3:22~30

牧師 大村  栄 


◇主イエスと洗礼者ヨハネが、それぞれ伝道活動を行っていた。そこに「25:清めのことで論争が起こった」。 ヨハネは「悔い改めの洗礼」(マルコ1:4)を宣べ伝え、「清め」を尊重していた。しかしイエスは、「神は、その 独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため である」(3:16)と、神の赦しと愛を語った。

◇人々は裁きと悔い改めを語るヨハネより、愛と赦しを語るイエスの方に大勢集まった。ヨハネの弟子たちが、 「26:みんながあの人の方へ行っています」とやっかみのように言う。しかし、 罪の赦しを語ることが出来る方は、唯一神の子のみである。人間が出来るのは、ヨハネがしたように、罪の悔い 改めを促すことまでだ。

◇ヨハネは「28:わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』」と言う。 後から来る大事な方に道を備えるために遣わされた自分を自覚している。

◇続いて婚宴の例えが語られる。「29:介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。 だから、わたしは喜びで満たされている」。ヨハネは花婿(キリスト)を待つ「介添人」に徹しようとしている。 用が済んだら静かに退場していく。それが喜びだという。

◇「30:あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。これはヨハネの自戒と言うよりも、本当の喜びがそこにあ るとの確信だ。主が栄えるなら私はいつまでも自分の立場に固執せず、速やかに退場していい。「絶えず目を覚 まして根気よく祈り続けなさい」(エフェソ6:18・教会標語)という真剣な祈りは、それによって神を「拝み(祈り)」 倒すのではなく、むしろ自分が神に倒される体験をする。神(キリスト)が第一となり、自分は退いていく。ここに 平安があり、そこにこそ生涯の究極のゴールとすべき目標がある。

◇ヨハネは「真理をさす指」だった。その指はキリストを指さしていた。教会はこの指となって、未来の希望を指 し示すものでありたい。

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