礼拝説教


2012/8/19 (聖霊降臨節第13主日)

「主イエスは命のパン」

ヨハネ福音書6:41~59

副牧師 五十嵐成見


◇この夏、主イエスの「心の貧しい者は幸いである」(マタイ5:3)の御言葉を幾度となく黙想し、語る機会を持った。私たちが真に共に隣人と生きていくために、どうしても知らなければならないことは「心の貧しさ」である。

◇主イエスは、ご自分を「命のパン」と言われた。出エジプトのマナの出来事と対比されている(6:49)。出エジプトの時の民は、神につぶやいたしユダヤ人もイエスについて「つぶやく」(41節)。相手を信頼せずに、いじけた心でいるときの言葉が、「つぶやき」である。だから、つぶやきは決して人には伝わらないし、何を言ってもダメだという諦めの中で、変わること、変えられることを求めることをしない。

◇主イエスは「つぶやき合うのはやめなさい」(43節)と言われた。なぜつぶやきがいけないのか。祈りの言葉になっていないからである。同じ不平のいい方でも、つぶやきの言葉か、祈りの言葉かでは大きな違いがある。どうすればいいか。つぶやきを祈りの言葉に変えよう。「祈りは、自分を自分の外に置くこと」(カルヴァン)言葉を内側にため込むのではなく、神に向かって言葉を置いていく。それは「神様」と、み名を呼ぶことである。

◇主イエスが「命のパン」とは、聖餐をあらわしている。ヨハネ福音書の時代、教会はマイノリティであり、迫害の嵐が教会を襲っていた。その中で家に集まり、キリスト者達は聖餐を分かち合った。主イエスの苦難と自らの苦難とを重ね合わせ聖餐の祝福によって生きていた。聖餐の際に主イエスの制定の言葉が告げられた。「罪が赦されるように多くの人のために流される私の血」(マタイ26:28)聖餐に与りながら、自らの心の貧しさを顧みながら、生きる力を与えられる。私達は聖餐において既に「永遠のいのち」を受けている(47節、現在形)し、天の御国での永遠のいのちを待ち望む。死を想う時、人生の向こう岸に手を広げて待ちかまえておられる主イエスを私達は見出す(ナウエン)。

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