礼拝説教


2012/10/21 (全家族礼拝)

「もっとしなやかに」

フィリピ2:1~11

牧師 大村 栄


◇教会は「神の家族」だ。ここには年齢も経歴も趣味も異なる色んな人が集まる。パウロはフィリピの教会に対して、「2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」と語る。しかし前述のように様々な人が集まる教会は、どうやって思いを一つにすればいいのか。それは<イエス様と同じ思いを持つ>ことによって可能となる。

◇「6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。神さまと共に高いところにいた方が、低いところに生きる私たち人間と同じ生き方をして下さった。

◇私たちはイエスさまと逆で、人より高いところに昇りたいと考える。もしイエスさまもそうだったら、私たちはイエスさまと出会うことは出来なかった。そしてイエスさまを通して神さまを知ることもなかった。この礼拝堂の天井の丸いドームは、イエスさまが高いところから身を屈めて低くなられたことを表している。

◇パスカルは「人間は考える葦だ」と言った。人間は、考えることをやめたら、葦のように弱い生き物でしかないという意味だ。葦は弱いというより、柔軟でしなやかなのだ。大風に木は頑張って立っているが、やがてボキッと折れてしまう。葦はすぐにクニャっと曲がってしまうが、嵐が収まるとそっとまた体を伸ばすことが出来る。

◇イエスさまが神の子である自分の立場を捨て、降りてきて人の子になって下さったことにならって私たちも柔らかく、「もっとしなやかに」自分を曲げて人に接していこう。「自分を無にして」捨てた主イエスを、神は見捨てなかった。最後に「9:神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。そこに最高の栄光があった。そのようなイエスさまを思う思いによってこそ、教会は一つの家族になるのだ。 >
(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com