2012/11/4 <降誕前第8主日>
「神はわがやぐら」
ローマ書3:21~28
牧師 大村 栄
◇旧約聖書は、神に義=正しいと認められるために「律法」の遵守が不可欠だと説く。しかし「十戒」から始まる律法は肥大し、人を束縛した。主イエスはその律法を、たった二つに集約された。神を敬い人を愛する(隣人愛)の「敬神愛人」である。
◇しかし律法は、それ自体に人を救う力はない。「鏡」のように人の問題点は指摘するが、それを改善する力はない。だから人類の救いは、律法とは別の方法で実現されなければならなかった。
◇ローマ3:21-22「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」。律法さえ守れば評価されるというような、人間が参与できる余地はもうなくなった。
◇先週の10月31日(水)は宗教改革記念日。その晩の祈祷会で創世記48章を読んだ。ヨセフが臨終間際の父ヤコブに、自分の息子たちへの祝福を祈って下さいと願い、2人を父の前に立たせた。するとヤコブは両手を交差させ、右手の祝福を左の次男に授けてしまった。神の御業は人間の常識を超えて行われるということを意味している。
◇神の御業を人間の法や組織の中に収めようとしたのが律法主義の過ちであり、ローマカトリック教会の過ちでもあった。それに対してマルチン・ルターは、ただ神を信じ、愛する信仰によってのみ、人は義とされると主張した(信仰義認)。
◇詩編46:11「力を捨てよ、知れ、わたしは神」。これを歌った讃美歌267「神はわがやぐら」。ルターの作詞作曲によるこの歌を、ハイネは「宗教改革のマルセイエーズだ」と言った。フランス革命のスローガンは「自由・平等・博愛」。「平等」を追求した社会主義は20世紀末に破綻した。「自由」を追求する資本主義にも矛盾や問題がある。
◇もうひとつの「博愛」は聖書的に言うと「隣人愛」であり、これなくして「自由」も「平等」も成り立たない。そしてその隣人愛の原点は、主イエスが言われた「敬神愛人」に立脚する。私たちはまず神を第一とすることによって、互いを尊び合う社会を築くことが出来る。そこに宗教改革以来追求してきた、個人と世界の希望を見出していきたい。「力を捨てよ、知れ、わたしは神」。
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