2012/11/25 <降誕前第5主日>
「もはや犠牲はいらない」
ヘブライ人への手紙10:11~18
協力牧師 中野 実
◇イエス・キリストの死は私たちのための犠牲である、という信仰がある。犠牲とは、罪によって神との関係が壊れてしまった人間と神との関係回復のために捧げられた贈り物のことである。しかしある哲学者によれば、犠牲は共同体全体が自らを守るために、誰かを身代りにして犠牲を造り出していく暴力だ、という。また日本の社会も犠牲をつくりだしていくメカニズムによって動いており、多くの犠牲の上に社会が成り立っているとある人は指摘する。2011年3月11日の出来事はまさにその事に気づかせてくれる出来事だった。そんな犠牲をめぐる問題提起を前にして、イエス・キリストの死が私たちのための犠牲であるという信仰を見直してみたい。
◇ヘブライ書によれば、イエス・キリストの死は、一度限りの、しかも完全な犠牲であった。つまりキリストの犠牲によってもはや犠牲は必要なくなったのである。ある意味でイエス・キリストは犠牲を生み出すこの世のメカニズムの犠牲者であった。しかし、人間の生み出す犠牲のすべてを一度限り、完全な仕方でその身に負って下さった。その目的は、犠牲を生み出し続ける人間の罪のメカニズムに終焉をもたらし、犠牲を必要としない新しい世界を生み出すためである。
◇私たちキリスト者もまた大きな罪の連鎖、次から次へと犠牲を生み出していくメカニズムに飲み込まれているような者たちである。しかし、その罪の連鎖を断ち切るために、自ら一度限りの完全な犠牲となってくださったイエス・キリストによって、私たちは新しく創りかえられた。私たちは他者を犠牲にして自らが生きようとする生き方から自由にされた「新しい人間」として生き始める事がゆるされている。次から次へと犠牲を生み出す罪の連鎖を断ち切る道がイエス・キリストによって切り開かれた事を信じつつ、人を犠牲にしないでよい生き方をするために新しく創りかえられている自分自身を再発見しながら、日々の歩みへと派遣されてまいりたい。
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