礼拝説教


2013/1/20 <降誕節第4主日>

「呼ばれている」

マタイ福音書4:18~25

牧師 大村  栄


◇主イエスは「18:ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった」。彼らに向けられた主イエスの眼差しがあった。讃美歌243「ああ主のひとみ、まなざしよ」。私たちは日常のただ中で、主イエスに見出され、呼びかけられる。ヨハネ福音書9:1では「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」。そこにも主の眼差しが向けられた。そしてこの人が生まれつき盲人なのは「神の業がこの人に現れるためである」(9:3)と告げた。あらゆる人に、その人の苦難も含めて、置かれた場所において「神の業」をあらわすという<命の目標>があると教えている。

◇前任地清水教会の信徒で保育園を営んでいた方が、子供たちに語った話し。「あなた方は神さまに造られ、この世につかわされました。その時、お手紙を持たされて来たのです。そのお手紙を発見し、その手紙の通り生活した人が、天国へ帰れる人なのです」。この手紙とその内容こそが、一人一人の<命の目標>なのだろう。それを発見して実行する作業を見守るのが、主のまなざしだ。

◇四人の男たちは主の眼差しを受けて、「19:人間をとる漁師にしよう」と招かれた。「海」に象徴される悪魔的な領域から人間を救い出し、本来の神の被造物に立ち返らせ、自由へと解放するのがその使命だ。後半に「23:イエスは…民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。「いやし」は単なる病気の治療ではなく、一人一人を真に<命の目標>を生きる者に変える奉仕であった。

◇その奉仕に召され、彼らは「20:すぐに網を捨てて従った」。不要なものを捨てて主の召しに従おう。本当に必要なものは神が用意して下さる。

◇「子よ、「はい」と言ってくれ/わたしがこの地上にやってきたとき/マリヤの「はい」が必要であったように/きみの「はい」がいま必要なのだ」(ミシェル・クオスト『神に聴くすべを知っているなら』より)。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」(ルカ1:38)と人生を捧げたマリアのように、私たちも神の呼び声に応え、キリストの眼差しに支えられて本来の自分を取り戻し、その自分に託されている<命の目標>を探し求めていきたい。
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