2013/3/17 <受難節第5主日>
「キリストわれにあり」
ローマの信徒への手紙8:1~11
牧師 大村 栄
◇「1:今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。死は罪に対する罰であり、人は死を恐れ、脅えて暮らしていたが、その死を死んだキリストが復活されたことにより、死はもはや罪の結果ではなく、新しい命への出発になった。人間はこうして「罪と死との法則から」解放されたのだ。
◇「2:キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」。「解放される」という未来形ではなく、「解放した」との過去形になっている。すでに実現したこのキリストによる無罪放免を告げ知らせるのが伝道だ。終戦の通達が信じられず、30年近くジャングルに潜んでいた兵士がいた。解放が告げられても、それを信じないならば、「罪と死との法則」と戦い続けねばならない。
◇死/それよりも怖ろしいものがある/死に切れぬ不信だ/これ以上の怖れがあろうか/死ぬるまでに/死をよろこび迎えるだけの信仰が出来ぬこと/これにました怖れがあろうか(八木重吉)
◇「3a:肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださった」。肉の弱さを持つ人間にはなしえなかった罪からの解放を、神がキリストにおいて実現して下さった。私たちはそれを受け入れるだけである。基督が解決しておいてくれたのです/ただ彼の中へはいればいい/彼につれられてゆけばいい(八木重吉)
◇だが私たちは「すでに」救いは実現していると思いつつも、克服できない不安が多くある。これは「肉」と「霊」の葛藤と言えよう。「6:肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」。八木重吉の言う「死をよろこび迎えるだけの信仰」を養う聖霊が内に宿り、それによって霊的な命を生きる人のことを、「1:キリスト・イエスに結ばれている者」と言うのだ。「(キリスト)につれられてゆけばいい」と重吉が言うように、キリストを持ち歩く者ではなく、キリストに持ち運ばれる者、まさにキリストのもの(キリスト者)として生涯を生きよう。
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