礼拝説教


2013/3/24 <棕櫚の主日>

「王なるキリストとに」

マタイ福音書21:1~11

副牧師 五十嵐 成見


◇今日は棕櫚の主日、受難週の始まり。主イエスの復活を祝う前に見つめなくてはならない十字架の苦しみがある。教区全体研修会で福島第一バプテスト教会佐藤彰牧師の講演を聞いた。その後『流浪の教会』を購入したが、表紙裏に「苦しみの先に喜びあり」と書いてくださった。「苦」の草冠は三本の十字架。ゴルゴタの丘を象徴している。主イエスの受難と自らの苦難を重ね合わせたのだ。だから希望を持って生き抜くことが出来た。送別会で青年がくれた本の一節「苦難と死は人生を無意味なものにしない。苦難と死こそが人生を意味のあるものにする」(V.フランクル)キリストの苦難と死があるから私達の人生はどんな困難であっても貴い。

◇主イエスがまことの王として、子ロバに乗ってエルサレムに入城される場面を聞いた。かつて生まれ育ったルーテル教会のホールにこの場面の絵画が飾られていた。この場面が「王としての入城」であるとは気付かなかったほどにさりげなく主イエスが描かれていた。主イエスをこそ王とすることを忘れないため教会が掲げたのではないかと思う。私達は誰もが王になりたいと願う。誰かの何かの王に。その力の誘惑に溺れる中で、国家も組織も個人も滅びていく。しかし私達は、主イエスをまことの王として迎えることで、自分が王になる生き方を捨てる。

◇主イエスは民衆に歓喜の声を持って迎えられたが、その同じ声が、5日後には「イエスを殺せ」と叫ぶ声に変わることを知っておられた。まことの王としてその声を全て受け入れる。民衆を愛し赦されるためだ。そうやって、主イエスは十字架の上で、この世の支配に対し、神の愛の支配を持って勝利される。

◇私達の心の門に主イエスに入城していただこう。キリストが「柔和な方」(5節)であられるように私達もキリストの柔和に生きあおう。そして「ダビデの子にホサナ」(9節)と賛美の声を響かせていこう。キリストを愛し礼拝を愛する者として。これが私達の生涯の願いだ。
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