礼拝説教


2013/5/5 <復活節第6主日礼拝>

「派遣に生きる」

マタイ福音書28:16~20

牧師 大村 栄


◇昇天に当たって、主イエスが弟子たちに伝道への派遣を命ずる場面である。キリストの派遣命令は「弟子とせよ。洗礼を授けよ。教えよ」の三段階を踏んでいる。洗礼は卒業証書ではなく、むしろ信仰生活の始まりだ。そこからみ言葉の学びの作業を始め、生涯続ける。だからこそ「洗礼を授けよ、そしてから教えよ」の順番になっているのだ。

◇「19:あなたがたは行って、すべての民」に神の愛を宣べ伝えよと送り出される。「イェスは遣わされる、地のはてまでも」(讃美歌21の564)。「地のはて」は遠い地球の裏側とは限らない。私たちの日常から遠くないところに、キリストの光を必要としている「地の果て」がある。そのような地への「派遣に生きる」私たちに、主は「20:わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われる。

◇世界の教会の歴史は、神による派遣の歴史だった。平岩愃保牧師は、カナダのメソジスト教会から派遣されて来たカクラン宣教師にから、19才で洗礼を受けた。カクランはトロントの大教会牧師の職を捨てて、日本に派遣された。同じカナダ・メソジスト教会から派遣され、山梨伝道に献身したイビー宣教師は日本に着任した年の冬に、生まれて間もない子供を病気で失った。

◇私は高田馬場のシロアム教会で生まれ育ったが、付属幼稚園の友人に近くの早稲田奉仕園で働く宣教師の子供ケニーちゃんがいた。彼は在園中に白血病に倒れて天に召された。ケニーちゃんの両親も、イビー夫妻も、派遣された遠い異国の地で我が子を召されるという事態に、どんな思いで直面しただろうかと思う。

◇彼らを派遣したキリストは「18:天と地の一切の権能を授かっている」と言われる。それは生死を超えてあらゆる領・謔ノ及ぶものだ。だから自分も家族も、「生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものである」(ハイデルベルク信仰問答)と信じて、彼らは派遣に生きた。

◇私たちも「キリストのもの」すなわちクリスチャンとして派遣され、闇にキリストの光を輝かせる使命に用いられたい。
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