2013/6/16 特別伝道礼拝説教
「破格の愛」
芳賀 力 先生(東京神学大学 学長)
マラキ書1:6、
ヨハネの手紙一2:28~3:3
◇ルカ福音書の放蕩息子のたとえには、豚の食べるいなご豆をあさるほどに自分を見失い、尊厳を忘れてしまった人間の姿がある。豚は汚れたもの、豚飼いは異邦人のすることだった。生かされている感謝を忘れ、不平不満ばかりをいう人間の不遜さが現れている。
◇しかし神はその人間の不遜さをそのまま放置させなかった。御子イエス・キリストをこの世に遣わすことにより、私たちを神の方に向けさせた。私たちは主の御名によって洗礼を受け、キリストの幹に接ぎ木されることで神の子とされるのだ。ただキリスト者とされたとしても、その事実を忘れ、尊厳も輝きもない汚い生き方をしてしまう弱い私たちである。しかし神の子になることは私たちの願望ではなく神のご決意なのだ。それは「わたしたちが神の子と呼ばれるほどで(Ⅰヨハネ3:1)」と記されていることからわかる。私たちの度肝を抜くほどに愛してくださる神なのである。
◇なぜこの神の愛は驚くべきものなのか。それは御子の犠牲によって私たちを惨めな状態から救い出し、人間の輝きを取り戻させようとして下さったからだ。御子は日本の鎖国時代に突然として現れた黒船のように私たちを怖がらせ、縮みこませる存在ではない。私たちを勇気づけ励ましてくださるお方である。キリストの中で神にかたどられる人間が完全に現され、キリストを通して輝き、人格、尊厳を取り戻す。それが礼拝によって起こるのである。
◇礼拝は御子にお会いする場であり、御声に応えて従う決意を新たにする時だ。Ⅰヨハネ3:3にある「清める」とは自分を神に献げるということに他ならない。私たちは御子によって贖われた存在であるからこそ、価値がある。この破格の愛を受け取っているから、この命を簡単に手放すことはできない。御子を覚える礼拝を通して、御子を離れては実にさもしい私たちが美しく生きることが可能なのである。あの放蕩息子が父の元に帰ってきて、父に一番良い服を着させて頂いたように、私たちは礼拝によってキリストの晴れ着を着させて頂き、この世へ遣わされていくのである。 (堀川樹 記)
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