礼拝説教


2013/8/11 聖霊降臨節第13主日礼拝

「家 族」

マタイ福音書12:43~50

 

主任牧師 大村 栄


◇「46:イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた」。主イエスの家族たちは「外に立って」、イエスの方から出てくるのを待っていた。マルコ3:31では「人をやってイエスを呼ばせた」ともある。私たちも時として、キリストとの間に距離を置いて、キリストの方から近づいて来てくれるのを待ったりしていないだろうか。それはキリストを自分の欲求に従わせようとする態度で、慎まなくてはならない。

◇「キリスト」を「教会」に置きかえることが出来るだろう。教会を自分の欲求に添わせようとしてはならない。J.F.ケネディーの有名な演説をもじって、「キリスト(教会)が私に何をしてくれるかではなく、私がキリスト(教会)に対して何を出来るかを考えよ」と覚えたい。

◇さらに言うと、「自分がキリストに何が出来るか」を問う以前に、「キリストがすでに私に何をしてくれたか」を考えるべきだ。キリストがすでにして下さったこと、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛され」た神の愛。その恵みに応えて生きることを考えるべきである。「これまでの生活は神からの贈り物、これからの生活は神への捧げものです」(バレンタイン・デ・スーザ)。その様な者たちを、主イエスは「わたしの母、わたしの兄弟」と呼んで下さる。

◇前半43-45節の「汚れた霊が戻ってくる」の箇所からは、家庭を清く整えるだけでは足りないと示される。きれいにしただけなら。「44:掃除をして、整えられていた」状態で、そこにさらに悪質の悪霊が住み着いてしまう。家族が平和に暮らすのは何よりだが、それだけでは、いざという時に混乱事態におちいりかねない。大事なのは、一つのものを目指す方向性で一致すること、それをもって我が家を満たすこと。

◇それが、神がキリストを通して私にして下さったことを考え、その恵みに応えて、自分がキリストに対して、教会に対して、世界に対して何が出来るかを考えるという方向性である。

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