2013/9/8 聖霊降臨節第17主日
「見える世界は見えない神から」
創世記45:1~15
牧師 加藤真衣子
◇父親の愛情の偏りなどゆえに兄弟たちから妬まれていたヨセフ。彼は兄たちに殺されかけ、エジプトへ売られるが、王や人々の信頼を得ていた。やがてカナン地方に飢饉がおこり、兄たちが食料の買い付けにエジプトに来た。再会する彼らだが、彼らには苦い過去があった。人との関わりの中で生きる時、過去にされた仕打ちや傷を受けた経験を誰もが持つ。それら全部を背負った私まるごとを主は受け止めてくださる。そして恨みや憎しみを超える新しい道が聖書の中にある。
◇兄たちを前に声をあげて泣いたヨセフ。彼が語ったのは、全てのことにおいて神がみわざを行っておられたのだ、ということだ。被害をこうむって傷ついた自分についてではなく、神の御心という摂理があったのだと語った。人の失敗や罪の行為はある。しかし聖書が語るのは、この状況を私のためにお許しになった神の御心はどこにあるのだろうか、と問うことだ。神が今、私に何を求めておられるのか。私が傷ついて、私が怒っているという問題ではなく、神がどんな目的と、どんなご計画を持っておられるのか、と考えるのだ。
◇喜びにせよ、憎しみにせよ神に差し出し、自分たちに起った出来事を、神を主語にして語りなおす。これが摂理を信じる信仰だ。いつでも神を主語として生きることは簡単ではない。御言葉と格闘しながら「私が」でなく、「神が」と考え、「神が」と始めることの恵みを味わうものと造り変えられていきたい。
◇昨年、天に凱旋されたH姉が遺した信仰や祈りが、主によって今も生き生きと教会に生き続けていることを最近知った。祈りは死なずに地上に残る。H姉は教会生活を続ける上でお悩みになっていた時もあったが、ヨセフのごとく神がH姉を遣わしたのだと今・A確信する。
◇神の御心は人知を超えている。「信仰が分からなくなったら『主われを愛す』を歌え(K・バルト)」主われを愛す、これが歴史を貫く御心だ。私たちが遣わされる所は神の秘められた御心がなされる場所だ。見えない神の摂理を心にとめ、遣わされる場所でベストを尽くそう。
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