礼拝説教


2013/10/6 世界聖餐日・世界宣教の日礼拝

「世に対する自分の義務」

ローマの信徒への手紙13:1~10

 

主任牧師 大村  栄


◇「1:人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」。パウロは「支配者への従順」(小見出し)を勧めるが、国家は時として悪魔的な存在になり得る。

◇かつて日本の国家が悪魔化した時代に、日本基督教団はそれに追従したという反省に立ち、1967年に「戦責告白」を公にした。そこに「私共は「見張り」の使命をないがしろにいたしました」。国家が悪魔の僕になりそうな時、教会はこれに「待った」をかけねばならない。それがパウロの言う「7:すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」と言うことだ。

◇教団の関東教区は、ここ数年「戦責告白」ならぬ「罪責告白」の検討を続けている。戦争責任も含むもっとあらゆる領域において、神の前におかす人間の根本的な罪そのものを悔いて告白する、ということだと私は理解する。

◇9月のシオン会修養会で「教会と社会活動」について語る機会があり、教会には教会ならではの関わり方があると語った。教会の社会的責任の根本は、神に対する人間の罪を自覚して、その執り成しを祈ることであると考える。

◇「見張り」は英語でウォッチ。モーニング・ウォッチと言えば、阿佐ヶ谷教会の修養会やワークキャンプに欠かせない、朝の聖書の黙想と祈りの時間。「見張り」の使命とは「祈り」であると言ったら、消極的に聞こえるだろうか。

◇しかし私たちの教会は、祈りによって存続した教会である。創立9年目の1933(昭和8)年に創立者の平岩牧師が急逝し、存立の危機に陥った阿佐ヶ谷教会は、協力牧師の松本卓夫先生夫妻と3人の若者による祈祷会から立ち上がった。祈りは無力だと私たちは言ってはならない。

◇祈りは神との深い交わりに立って、人生と社会を見守ることであり、見張りの役を果たす行動なのだ。それによって教会が立ち上がる。

◇「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈られた主イエスにならい、自分と世界の罪の赦しのために、取りなしの祈りを捧げることが、「7:すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」の勧めへの応答なのである。

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