2013/11/10 降誕前第7主日礼拝礼拝
「忍耐は主に嘆くこと」
エレミヤ書20:7~9、ヤコブ書5:7~11
協力牧師 中野 実
◇私たちはすでにイエス・キリストによって救われた者として人生を生きることがゆるされている。しかし自分の中には神に従わない自分が存在し、私たちの外にも神に従わない世界が歴然と存在している。その意味で私たちは救われておりながら、なお救いの完成を待っている存在だ。キリスト者は旅の途上の存在として「忍耐」が求められる。ヤコブ書はそんな「忍耐」の大切さを語る書物である。
◇ヤコブ書は、キリスト者の基本姿勢である「忍耐」を教えるために、「忍耐」とは正反対の姿勢を明らかにする。それは互いに不平を言い合う事、より正確には、互いにため息をつき合う事である。神に対して正しく嘆く事を忘れた人間の倒錯した現実が、互いにため息をつきあう事である。
◇ヤコブ書によれば、互いにため息をつきあう倒錯した現実から脱却した、神の喜ばれる姿勢こそが「忍耐」である。「忍耐」とは神に激しく嘆く事である。そんな私たちの模範として、ヤコブ書は旧約聖書の預言者たちとヨブに言及する。この関連で、エレミヤ書20章7~9節およびヨブ記16章18~22節を参照。
◇私たちはキリスト者としてこの社会のただ中を歩む。キリストの名を背負いながら歩む事は厳しい歩みである。しばしば信仰者ならではの苦しみ、悩みを味わう。しかし、そこでこそ私たちには大きな恵みが与えられている。それが神に嘆く事である。
◇なぜ神に嘆く事が幸いなのか?その根拠は嘆く対象である神にある。今朝の御言葉の最後に「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」とある。神が「慈しみ深い」というのは心の最も深いところ、はらわたの奥底で私たちの苦しみや悲しみを感じ取ってくださるということだ。そのような神のお姿を最もはっきりと示してくださった方こそが、私たちの主イエス・キリストである。キリストの恵みを常に覚えつつ、慈しみ深い主なる神に大胆に近づき、主に嘆く歩みを続けて参りたい。
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