2013/11/17 降誕前第6主日礼拝
「救いの約束」
出エジプト記6:2~13
主任牧師 大村 栄
◇エジプトの労働力とされていたイスラエル人は、王ファラオにカナンへの帰還を願い出たが、王は聞き入れずさらに酷使した。民は交渉に失敗したモーセを非難し、モーセは神に訴えた。それに対する神の応え。「2:わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった」。「主」(ヤハウェ)の名の意味を教えていなかったと言う。
◇その名が意味するところは、続く言葉にある。「5:わたしは人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。6:わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出す」。民と交わした救いの「契約」を思い起こす神、約束を忘れない神、それがここで言う「主」の名の意味である。
◇モーセは神の言葉を民に伝えたが「9:彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」。直面する現実の厳しさが、神によって未来を希望することをさせなかった。「意欲を失って」は、「息が短い」の意味。「息」ルーアハは「霊」スピリットと同じ。現実の厳しさが霊性、すなわち神への信頼と信仰を失わせる。それは私たちの信仰生活における日々の戦いである。
◇しかし「6:わたしは主である」と言われる神は、約束に忠実な神、「約束を忘れない神」だ。私たちが忘れても、現実の厳しさゆえに私たちの信仰が弱まったとしても、神は「救いの約束」を決して忘れない。私たちを「手のひらに刻みつけ」(イザヤ49:16)てまで忘れまいとして下さる。そういう神の、決して忘れないということのしるしが、御子キリストである。
◇「6:大いなる審判によってあなたたちを贖う」。この「審判」の究極が、十字架の出来事に他ならない。それによって「あなたたちを贖う」、御子の命を代償にして、私たちを救って下さるとの約束だ。そのために神が御子を世に送って下さった日が、クリスマスである。
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