2013/12/29 歳末礼拝
「蓄えるべき言葉」
マタイ福音書12:33~42
伝道師 堀川 樹
◇聖書ではしばしばこの箇所のように神の民の姿が木やその実として、たとえられる。神の民である私たちがこの一年、どのような実を実らせてきたのか。心の中はどんな言葉で一杯であったか、問われる箇所である。
◇ここでキリストがおっしゃる 「つまらない言葉 」(36節)とは神の救い、神の愛を拒絶する言葉で、神なしで生きていこうとする心からでる言葉。私たちの 「しるしを求める心 」(39節)がこの 「つまらない言葉 」を生みだすのである。いま現代社会は宗教が花盛り。新たな宗教が多くの人々の心を捕えるのはしるしを示すからであろう。しかしキリスト教は目に見える奇跡を重んじない。むしろキリストはここでそのような目に見えるしるしを与えないとさえおっしゃる。それは目に見える証拠を見て信じるのは信仰ではないからに他ならない。
◇ただここでキリストは 「ヨナのしるし 」、御言葉だけは与えられていると語る。その御言葉があなたがたのしるしとして既に与えられているのに、あなたがたは奇跡という目に見えるしるしを求めていると言うのである。私たちが神の御言葉の前に立つ時、それを見下すような思いで目に見えるしるしを求めるか、それとも膝をかがめて、御言葉を受け入れるか。私たちの生き方そのものが問われている。
◇実際には私たちはこのキリストの問いの前に立ちえない。それは私たちも御言葉の前に膝をかがめず、目に見えるしるしを求めているからだ。しかしそんな私たちにキリストは語りかける。ヨナやソロモンのしるし以上のしるしキリストがここにいると。クリスマスに人となられた神キリストこそ、私たちのために与えられた生ける神の愛のしるし。生ける御言葉である。
◇そしてこのキリストとつながることによって神の御心に適った木とされ、良き実を結ぶことができる。ここに私たちの実りある人生がある。キリストは馬小屋のようなみずぼらしい私たちの心にも産声をあげて下さる。だからこそキリストをわが心にお迎えして、歩み続けよう。
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