礼拝説教


2014/1/5  新年礼拝

「主の家に帰る日」

ルカによる福音書2:41~52
主任牧師 大村  栄

 
◇12才で初めてエルサレムへの巡礼団に加わった少年イエスは、両親たちが帰路に着いた後も神殿に残り、慌てて捜す親たちに向かって、「49:わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と応えた。礼拝者にとって「父の家」(神殿=教会)は、そこに「いるのは当たり前」という本来の居場所だ。

◇両親は息子が「44:道連れの中にいるものと思」ったり、「親類や知人の間を捜し回った」。それは大事なものや人を人間の中に探す姿を象徴している。天に送った方々が、今も礼拝中あちらこちらに座っておられるような気がする。しかし彼らは主イエスと共に「49:自分の父の家にいる」のだ。

◇詩編23:6「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」。「主の家」は信仰者が最期に帰る本来の居場所であると同時に、主の日ごとに日常生活を中断して身を置く場でもある。

◇日曜に休むのが辛く思えることもある。教会に行かないで仕事や家事を続ければ、もっとはかどるのに、もっと生活が安定向上するのに。または教会に行かないでゆっくり休めばもっと助かるのに。そういう思いを断ち切って、日曜日は教会の礼拝に集う。それがキリスト者のしるしである。

◇日曜ごとの人生の中断によって、私たちは自分の人生の主は自分自身ではなく、神であるという厳粛な事実を身をもって学ぶのだ。中断せずに自分を押し通す人生には、真の慰めや救いはない。

◇詩編27:4「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」。「主の家」につながることは生涯の支えであり、そこで永遠の朝を迎えたいと願う。

◇今年2014年、礼拝者として、一回でも多く主の日ごとに「主の家」に帰ることを望みつつ、そこからそれぞれの生活の場へと送り出されて奉仕者として生かされたい。そしてやがて最期に、本当の「主の家」に帰る日を望み、またその日に備えつつ、日々を希望の内に歩んで行こう。

(C) Asagaya Church, United Church of Christ in Japan, asagaya-church.com